特定非営利活動法人「ふくしま支援・人と文化ネットワーク」





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韓国の原発の現状を知り、日韓市民の連携で脱原発への道を拓こう 2015.4.17~20 韓国・古里原発視察ツアー報告 (2015.05.15更新)

NPOまつもと子ども留学基金 (2015.03.19更新)


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2015.05.15

韓国の原発の現状を知り、日韓市民の連携で脱原発への道を拓こう
2015.4.17~20 韓国・古里原発視察ツアー報告

理事 広重隆樹

脱原発は国境を越えた市民運動の連携で

「3.11」の福島原発事故は、原発が環境に対してきわめて重大な汚染源になることをあらためて示しました。原発から漏れ出た放射性物質は国土を広く汚しただけでなく、海や空を伝って海外へも到達しようとしています。放射能に汚染された産品が、海外に輸出される危険性もゼロではありません。たとえ一国内だけで原発を止めても、万一近隣諸国の原発が重大な事故を起こせば、その影響は国境を容易に越えて広がることは自明です。

 例えば韓国・釜山広域市にある古里(コリ)原発と、佐賀県の玄海原発は、間に玄界灘をはさんでいるとはいうものの、実質的には近隣にある原発です。2つの原発の間の直線距離は約200km。東京と福島原発のの距離とほぼ同じです。放射性物質が拡散する距離としては短いというべきです。かつてチェルノブイリ事故のとき、西欧諸国が敏感に反応したのも、ウクライナは西欧からけっして遠い場所ではなかったからです。原発のリスクは一国内に止まるものではなく、海や山を越え、国境をまたぎながら広範に存在しているのです。

 こうした地理的な近さだけでなく、原発政策を強行する国家や独占企業との闘いという点でも、私たちは近隣諸国の市民と共有すべき課題をもっています。原発は国策を背景に進められる巨大プロジェクトだけに、その建設や運営にあたって地域住民の利害は無視されがちです。わずかばかりの補償金や交付金と引き換えに、住み慣れた土地と大切な生業を売り渡せば、人々はその後、根無し草として生きていかなければならないのです。

 福島原発の事故をきっかけに改めて、世界的な脱原発の運動が高まっていますが、その一方では沸騰する国内のエネルギー需要に原発新増設で応えようとする国々や、そこに自国の原発技術を輸出しようとする国々があります。「3.11」事故が教訓化されないまま、アジア全域に原発が拡散することに、私たちは強い危機感を感じています。

韓国の原子力発電所  こうした状況の下、海外で脱原発運動を闘う市民たちと交流を深め、互いに情報を交換することは、私たちがこれからの日本における脱原発、とりわけ福島の復興や自立した地域社会の再建を考えるうえでも大いに意義があります。
 なかでも隣国・韓国の市民運動との連帯は重要な課題です。韓国ではすでに4つの地域に計23基の原子力発電所が稼働し、その発電量は総電力消費量の45%を占めています。さらに増強計画があり、建設中の5基、また計画が確定した6基を加えれば、原発は2035年までに現在の2倍近い41基に増えようとしています。韓国もまた原発依存大国への道を歩もうとしているのです。

 稼働中の原発に問題がないわけではありません。特に350万人が暮らす大都市・釜山の中心部から20キロにある古里原発は、これまで放射能漏れや情報隠しなど多くの事故・事件を起こしてきました。

 これまではけっして大きくはなかった韓国の脱原発運動ですが、福島の事故を経て、市民の意識も変わりつつあるといわれます。

 韓国の原発の現状を知り、日韓市民の連携で脱原発への道を拓こう──こうした趣旨から、4/17~4/20の3日間にわたって行われたのが「韓国・古里原発視察ツアー」でした。日本からは当NPOの理事や会員有志、さらにこれまで国内で労働運動や脱原発運動を担ってきた市民、計20名が参加しました。

 私たちNPOと韓国の市民運動との連携は、2014年に強まりました。1月には高圧送電塔の建設に反対する密陽(ミリャン)の人々と現地で連帯、夏にはソウル近郊で開かれた青少年リフレッシュ交流キャンプに福島の子どもたちを引率しました。釜山YWCA主催の講演会への参加を経て、秋には、韓国原発の現状を知るためのリーフレット「原発ーチェルノブイリ・福島そして釜山 ~海峡を越えた脱原発への道~」の共同出版や、11月のNPO主催のシンポジウムや学習会への金海蒼(キム・ヘチャン)慶星大学教授の招聘などを重ねてきました。今回のツアーには、こうした交流の基盤をさらに広げようという狙いがありました。

「甲状腺ガンの発生は原発の放射能由来」画期的な判決を勝ちとった住民──古里

釜山の市民運動団体や行政幹部と交流  ツアーの行程は別表の通りですが、初日(4/17)の市民運動交流会では、釜山の市民団体「市民政策工房」や釜山の地方紙「国際新聞」の記者たちと交流しました。宴席に、釜山広域市の行政区の一つ、中区の副区長や職員が出席していたことには正直驚きました。日本ではまだ考えにくいことですが、脱原発や環境問題をめぐって地域行政府と市民の協業関係が日本よりも強いことを感じました。現地でコーディネイトをしてくれた、金海蒼教授はもともと環境問題を専門とするジャーナリストで、区や市にも強いパイプがあったからではないかとも想像できます。
 ちなみに韓国では原発を「核発電所」、脱原発運動を「脱核運動」と呼ぶことが多いようです。ウランやプルトニウムの核分裂反応を利用する原理は、基本的には核兵器と同じものですから、韓国での「脱核」という言い方のほうが、核兵器をも対象に含むという意味でより正確な表現のようにも思えます。

古里原発廃炉を求めるデモに参加  4/18土曜日は、古里原発の廃炉を求める市民たち約80名と共に、釜田駅から釜山市民公園までをデモ行進。横断幕を掲げ静かに歩くパレードでしたが、公園でくつろぐ市民たちへのビラ配布も受けがよく、日本からの参加者を感動させました。ちなみに、この釜山市民公園は、もともとは在韓米軍基地の跡地。公園の造成は、基地撤去を求める市民運動の成果の一つとされています。
「ふくしまの祈り」を語る神田香織  行進参加者は、そのままハンギュル芸術ホールでの神田香織講談「ふくしまの祈り」公演に参加しました。神田香織が海外で本格的な講談を披露するのは初めてのこと。日本語の講談の内容を、ハングルの字幕付きスクリーンでフォローするスタイルは画期的なものでした。
 釜山郊外の古里原発のすぐそば(3.9~8.5km)に住んでいる住民が原発運営企業(韓国水力原子力会社)を訴えた民事裁判で、2014年10月、「甲状腺ガンの発生は原発の放射能由来と考えるのが相当」という画期的な判決が出ましたが、その原告のイ・ジンソプさんと、ピョン・ヨンチョル弁護士の話を、公演後に聞きました。 画期的な判決を勝ちとったイ・ジンソプさん親子 イさんは、訴訟の内容を訴えるため、発達障害の息子さんと二人三脚で国内を3000km行脚し、韓国内では広く知られている方。彼の裁判闘争は、韓国の他の原発立地地域での集団訴訟の動きを触発することになりました。イさんは今年1~2月には日本各地で講演活動も行っています。
 釜山地裁の判決が画期的なのは、被害の立証責任は加害者側(すなわち、原発運営会社)にあること、および甲状腺ガンの発症と原発の因果関係を認めた点です。背景には、ソウル大の疫学調査によって原発立地地域とその以外の地域との甲状腺がんの発症率の違いが明らかにされていたことが大きな要因としてあります。
ホテルロビーで地元テレビ局の取材を受ける神田香織  ただ、訴状では、イさんの奥さんの甲状腺ガンだけでなく、自身の直腸ガン、息子の発達障害も原発の放射能に原因があると訴えましたが、裁判では甲状腺ガンだけが認められました。今後の控訴審の行方は楽観できませんが、会場には彼らの闘いを支える熱い連帯の輪が広がっていました。
 これらの講談や交流の様子は、釜山のローカルテレビ局のニュースや、地元紙、国際新聞でも報道されました。

柿畑広がる農村に、巨大鉄塔。住民たちの体を張った闘い──密陽

古里原発の広報センターの展示 古里原発の広報センターの展示  4/19日曜日はレンタルバスで、釜山郊外の古里へ。ここに古里原発があります。同原発の1号機は韓国初の商用原発として1978年に運転を開始した、福島第一原発と同じくらい老朽化した原発です。その後、80年代に2号機から4号機までが建設・稼働していますが、1号機では2012年の定期点検で全電源喪失事故が発生したにもかかわらず、それが1ヶ月以上にわたって隠蔽されたという「事件」が発生しています。また隣接する蔚山広域市の新古里原発でも、制御ケーブルの偽装事件、豪雨で地下の配電盤が浸水し23時間の停止、建設現場のガス漏れによる作業員の死亡など、たびたび事故が起きています。

福島原発事故がダシに使われていた  古里原発の敷地と住宅地の間は、1kmも離れておらず、印象としては、住宅地のど真ん中という感じです。これには驚きました。原発側が費用負担して、5km以上離れたところに集団移住させよという住民運動もあります。ただ、5km以内も相当危ないというべきでしょう。「エネルギーファーム」という原発広報センターのような立派な建物では、イ・ジンソプさんに案内役を買っていただき、韓国の原発企業が自分たちの技術だけで作ったと自慢する新型炉「新古里原発」の模型などを見学しました。
 この施設の展示パネルのなかにもう一つ目を惹くものがありました。「3.11」後に急きょ追加された「国内原発と日本の福島原発の安全性の違い」と題した図解です。いわく、福島原発は沸騰水型軽水炉(BWR)であるが、韓国内の原発は加圧水型軽水炉(PWR)であり、かつ日本と違って韓国は地震が少ないから「安全だ」というわけです。福島原発の事故をダシにつかって、韓国の原発の安全性をPRしようという意図がミエミエでした。

 古里原発を後にしてバスは、釜山から高速道路で移動、慶尚南道の密陽(ミリャン)市へ向かいます。あいにくの雨でしたが、しばらくすると柿畑が一面に広がる、のどかな山あいの農村に到着します。牧歌的な風景ですが、しかし、ここはかつての成田空港反対闘争(三里塚闘争)を彷彿とさせるような、激しい鉄塔建設反対闘争が繰り広げられつつある場所でもあります。

 古里原発に隣接して新古里原発が建設され、その1号機が稼働したのは2011年のこと。ここで作られる電気をソウルなどの大都市に送るため、76万5000ボルトという世界で最も高電圧の送電線を建設する計画が進んでいました。ところが、69機もの送電塔が密集する予定地の密陽では、電磁波による人体・農作物への被害、土地買収による共同体の分断などを憂う農民が多く、送電線建設やその元凶である新古里原発の建設中止を求める運動が盛り上がりました。

密陽765キロボルト送電塔反対対策委員会のイ・ゲサム氏  農民らは「密陽765キロボルト送電塔反対対策委員会」を結成、建設工事の重機を止めようと体を投げ出したり、ソウルの国会内集会で議員たちに訴えたり、韓国電力本社前での座り込みなども行いました。これに呼応したソウル市民がバスを仕立てて応援に駆けつけるという局面もありました。しかし、農民の中には工事中断の見込みがないことを悲観して焼身自殺した老人もいます。なんとしても原発を増強したい国と企業は、農民の前に補償金をちらつかせて懐柔し、それでも抵抗する農民を強制代執行で強制排除。農民らは、逆に電力会社から多額の損害賠償請求をかけらています。

密陽で高圧送電線反対運動を続ける住民たちと  私たちは監視用のテント小屋の一つで、対策委員会の人々と交流しました。彼らは高電圧を示す「765K」という文字を染め抜いた揃いのベストを着込んでいます。テントの中で栗やイモの入った美味しい雑炊をご馳走になりました。テントの近くには1基の巨大鉄塔がそびえていますが、実際の送電はまだ行われていません。農民たちの堅い決意が送電を食い止めているのです。

 かつては村の学校の先生で、現在は反対対策委事務局長を務めるイ・ゲサム氏は「密陽では10年間にわたる闘いが続いているが、パク・クネ政権になってから国の攻勢が強まり、建設業者を3000名規模の警官が警護しながらの建設工事が各所で強行された。もともとは電磁波や低周波騒音問題が私たちの主要な関心だったが、今は、国や企業など権力の理不尽な暴力に抗し、故郷を守る闘いになっている。原発事故で故郷を奪われた福島の人々とも連帯していきたい」と語っていました。

在韓被曝2世らと交流──大邱

被曝2世患友会の陳景淑さん  密陽から釜山への帰途には大邱(テグ)市へ立ち寄り、在韓被曝2世らが作る「韓国原爆2世患友会」や、「大邱KYC(青年連合会)」の若者たちと交流しました。
 韓国にも広島、長崎への原爆投下で被爆した人々がいることは日本ではあまり知られていません。しかし「患友会」前事務局長のチン・ギョンスク(陳景淑)さんや、この会の運動を支援する、岡田卓己・啓明文化大学教授の話によると、大邱から近い陜川(ハプチョン)を中心に被爆者が慶尚南道・慶尚北道に集中しているということです。その数は、広島・長崎の全被爆者70万人中7万人にものぼりますが、その多くはすでに日本国内で亡くなり、戦後、韓国に戻ってきた人たちも多くが原爆後遺症で肉体的・精神的苦痛を味わっています。先天性免疫グロブリン欠乏症という遺伝病に苦しむ被曝2世の一人が2005年に大邱で「患友会」を組織、韓国社会に支援を求める活動や「原爆被害者およびその子女のための特別法案」の策定運動などを続けているということです。
 原発は戦後、核兵器の「平和利用」という政策から生まれました。兵器としての利用であれ、エネルギー発生装置としての利用であれ、それがもたらす放射能の災厄は基本的に変わることがありません。「脱核」を掲げる韓国の市民運動が、原発だけではなく、原水爆=核兵器をも対象にしながら、緩やかに広がっている様子を実感することができました。

 その運動は、密陽の756K反対委の人たちが語っていたように、日本の空港建設反対闘争から、あるいは釜山の金海蒼先生が語っていたように、60年代以降の水俣などの公害闘争から多くの教訓を得ています。同時に、今は私たち日本人が韓国の市民運動から学ばなければならないことも多々あります。今後、韓国をはじめとするアジア各地の脱原発運動と連携しながら、まさに自分たちの手で、市民の人権と誇り、そして「故郷」を取り戻す運動を続けていかなかければと思いました。

釜山国際市場で  蛇足ではありますが、ツアーの一行は、最終日の午前中のみ釜山市内を観光しました。朝鮮戦争時に北部からの避難民が集住した急斜面の丘の上の住宅地が、いまはアーティストたちのギャラリーやアトリエになっています。植民地時代の日本人の墓地の墓石を基礎材として使った住宅は、建築史的にも興味深いものでした。釜山の観光名所の一つ「国際市場」では、金先生からこの市場を舞台にした映画『国際市場で逢いましょう』が国内で1300万人の観客を動員したという話も聞きました。国境を越えた市民運動の連携を深めるためには、互いの歴史を知ることが欠かせません。5月には日本でも封切りになるので、ぜひ見てみたいと思いました。