特定非営利活動法人「ふくしま支援・人と文化ネットワーク」


2013.10.15

オーガニックコットンプロジェクト、綿摘みに参加

いわきと富岡、ふたつの畑の違い

理事:広重隆樹

震災と原発が切断した環をつなぐ試み

 私たちが支援する福島におけるオーガニックコットン(有機栽培綿)づくりの事業。昨年に引き続き、コットン畑の農作業を手伝う援農ツアーを、いわき市小川町で10月6日に実施しました。東京からは、当NPOの理事3名や会員を含む28名が参加しました。

 「ふくしまオーガニックコットンプロジェクト」(旧名称:いわきオーガニックコットンプロジェクト)は2012年にスタートしています。かつて綿布の輸出量が世界一だった日本ですが、現在は安価なアジア産の綿布に圧倒され、生産量は減少。統計上の国内自給率は0%です。にもかかわらず、福島から新しい農業と繊維産業を創りだしたいという人々がいます。有機栽培で綿を育て、収穫されたコットンを製品化する一連の取り組みを通して、震災と原発災害によって疲弊した地域に活気と仕事を生み出すことが目的です。

 福島県は農産県として知られていますが、いわき市の農業はけっして有力な産業とはいえません。総農家数は長期減少の傾向がつづき、2010年の統計では7800戸どまり。それまでの10年間で15.5%減少しています。総農家数のうち、収穫した作物を販売する農家は5260戸。うち専業農家は964戸(18%)にすぎず、大半が兼業農家です(いわき市編『いわき市の農業──2010年世界農林業センサス結果報告書』より)。

「おてんとSUN企業組合」のメンバーが綿摘みを指導

 その専業農業といえども、実際に耕作にかかわる人の高齢化は否めません。また「3.11」後は原発事故に伴う風評被害の影響で畑仕事を断念せざるを得ない人も多く、耕作放棄地が急増しているのが現状です。
 しかし農地を荒れたままにするということは、人間の基本的な営みにも深刻な影響を与える大きな問題です。たとえ継続的に農業に携わらなくても、何らかの形で農業を支えることは、食の安全を含む、人間の生態系を維持するために必須の条件なのです。震災と原発がその営みの環を一時的に切断したとしても、それに負けることなく、その環を再びつなぐことがいま求められています。
 プロジェクトでは、現在いわき市内20カ所の畑でコットンの栽培を行っています。このほか市内の小中学校10校での栽培実習にはのべ700人の生徒が参加しています。さらに、放射線量を測定しながらの話ではありますが、双葉郡の広野や楢葉でも作付けの計画があります。
 2012年の綿の収穫は約300kgにのぼりました。その綿の一部を織り込んだTシャツや「コットンベイブ」などの商品化も進んでいます。コットンベイブは綿と種でできた人形で、仮設住宅で暮らす避難者などが手仕事で制作しているそうです。プロジェクトの成功のためには、圃場を提供してくれる農家はもちろんのこと、市民、学校、NPO、地元企業など、様々な人が参加することが重要。有機栽培ゆえに人手がかかるため、地域外のボランティアの力も欠かせません。

小川町の畑で綿毛を手摘みする

 いわき市小川町は、いわき市のなかでもまだ自然が豊かに残る地域です。一帯を流れる夏井川の上流には渓谷もあり、カエルの詩人としても有名な草野心平が子供の頃に見た里山の風景のいくぶんかは残されたままです(小川には草野心平記念文学館があります)。今回は、地区の兼業農家3軒が提供してくれた畑を訪ねました。
 クリーム色からピンクに色づく綿の花には、楚々とした美しさがあります。この花が開花したあと、成熟したさくが開裂し、綿毛に覆われた種子が現れますが、この綿毛が木綿の原材料になるのです。ただ、収穫期といっても、畑の綿がいっせいに開裂するわけではないので、はじけた綿を探しては、綿毛を集める根気のいる作業が必要です。この作業を怠ると、せっかくの綿毛が地面に落下して使いものにならなくなります。
 世界の大規模な綿花栽培では機械による収穫が一般的ですが、もちろん、プロジェクトの綿畑は小さなものなので、手摘みで収穫します。私たちも畑の中に入って、腰をかがめては、下向きにはじけた綿を探し、それを手で摘むという、昔ながらの方法を体験することになりました。うねるように葉を伸ばす枝の間には、カマキリやヘビも休んでいます。有機農法はこの小さな動物たちにも美味しい恵みをもたらしてくれているようです。
 綿摘みで午前中いっぱい汗を流すかと思っていたのですが、開花状況が思わしくなく、この日は30人で30分もすれば終わってしまうほどの作業量でした。
 収穫の後に、町の集会所に戻り、昼食を摂りながら、現地を案内してくれた「おてんとSUN企業組合」の島村守彦理事の話を伺いました。
 今回私は初めての援農参加だったのですが、参加する前は、そもそも衣料用綿の自給率0%の日本で綿を育てて、はたしてそれが事業になるものだろうかという疑問がありました。あくまでもそれは復興のシンボルにすぎないだろう。下手をすると外部者の自己満足に終わってしまうのではないか、という疑念がぬぐえなかったのも正直なところです。実際、畑に行ってみるとそれは家庭用菜園というほど規模が小さく、兼業農家が人手不足で放棄せざるをえない畑を借りる程度のもの。収穫した有機綿で織ったTシャツが売られているといっても、いわき産の綿の混入率は数%でしかなく、一種のシンボル的な事業であることはその通りなのでしょう。

集会所で島村氏の話を聞く

分断を越えて、新しい産業とコミュニティをつくりだす

 ただ、この事業にかかわる島村氏の話を聞いて、「シンボル」の意味について少し考え方が変わりました。
 島村氏は2012年末に市内で発生した一つの事件のことを語ります。市庁舎の壁に、仮設住宅に避難している人たちを侮蔑するような落書きが書かれた事件です。
 復興の遅れにいらだついわき市民、補償金で労働意欲を失い、それがゆえに妬みの的にもなっている原発立地地域からの避難民、そして県外から入ってきた支援者。この3者をつなぐ心の環がずたずたに引き裂かれていたというのです。このねじれを解きほぐし、共に力を合わせて復興に立ちあがるためには、行政のお仕着せのキャンペーンではなく、コミュニティの住民や支援者が自発的にかかわる別の復興のシンボルが必要だったというのです。それは従来の農薬づけの農業や原発に依存したエネルギー体制とは別の、オルタネイティブな意思を持つものでなくてはならない、という思いが彼らにはあるのです。
 小規模ながらも小川町で太陽光などによる地域発電(コミュニティ発電)を始めているのも、その思いからです。被災者・地域市民・ボランティアが同じ目的に向かって手を組む姿は、土地の造成から太陽光パネル張りまでをすべて自分たちで担った、コミュニティ発電でも見られたそうです。

 島村氏はもともとは関西の企業で太陽光発電パネルの販売をしていたサラリーマン。いわき市に6年半駐在しながら相双地区にも足を延ばし、原発立地町村にも猛烈に営業活動を展開していた人のようです。皮肉なことに、原発のおひざもとの双葉郡では、当時まだ高価だった太陽光パネルがよく売れたそうです。原発のおかげでこの地の世帯収入は豊かだったからだというのです。島村氏は阪神大震災を地元で体験したことから人生観が変わり、会社を辞め、「転勤生活のなかでいちばん住みやすかった」いわきで第二の人生を始めた矢先に、今度は「3.11」に遭遇します。
 もとから福島の人間ではないけれど、そこはもう自分の第二の故郷。原発事故から逃げることなく、地域のために何かをしたい。そのためにはコミュニティの再建が必要だという思いに至ったのです。
 「原発が悪い、地震・津波が悪い、風評被害が悪い、という“被害感”にとらわれたままでは、人々は自分の足で立つことができない。地域の復興もありえない。原発事故は自分たちの世代が起こした過ちという認識を持ち、私はその責任の一部でも果たしたいと考え、その手段に自然エネルギーを使うことにしました。オーガニックコットンやコミュニティ発電は、代替案を示しながらの、私たちの意思表示なのです」

 福島を昔通りに再建するというより、新しい未来を感じさせる形で再構築したいということなのだろうと、私は氏の話を聞いて思いました。オーガニックコットンプロジェクトは、現状ではほとんど採算性を度外視した、ものすごく遠大な事業構想ですが、そこに関わることで、未来を感じたい。その意思は尊重されて然るべきものだと思いますし、私たちもそれを踏まえて支援を続けていきたいと思います。
 「思いだけじゃ食っていけねえよ」と言う人は多いでしょうが、逆に理想を押し殺して現実に拝跪してしまったがゆえに、双葉郡は原発に依存し、しかも中毒のように依存度が高かったゆえに、手痛いしっぺ返しを食らったのではなかったのでしょうか。そうした“愚”を再びおかさないためにも、福島には新しい自立的な産業と人々の連帯が必要なのです。

いわき市久ノ浜の海岸

富岡は復興にほど遠い。二つの畑の差をもたらしたもの

 「おてんとSUN企業組合」のもう一つの事業に、「スタディーツアー」があります。地震・津波・原発事故の被災現場において被災者自身から発せられる言葉を聞き、震災の教訓を学びながら、いま自分たちができることを見出していく。被災地のいまの姿を目に焼きつけ、震災を機に生まれた新たな試みを体感するツアーです。震災の足跡をたどるのはもちろんですが、未来に向けて動き始めているいわきの姿をも体感できるプログラムが企画されています。

崩壊したままのJR富岡駅舎

 そのスタディーツアーの一環として、私たちもバスで、久ノ浜~広野~楢葉~富岡を国道6号線沿いに北上しました。いわき市久ノ浜では津波にさらわれて壊滅した沿岸の集落(跡)や、奇跡的に残った神社の様子などを見学。小学校の前に設けられた、小さな復興商店街では現地の人々と交流しました。
 そこにはまだ希望の芽が見えているのですが、さらに北、今年になって立ち入り制限が解除(ただ居住はできない)された富岡町(福島第二原発の敷地の一部がある町)の様子は、想像を絶するほどひどいものでした。基本的に2011年3月11日で時間が止まったまま。「死の町」というのはけっして大げさな表現ではありません。駅前の商店街など、解体して更地にするしかないと思うのですが、立ち入りを制限されていたので、ほとんど手が回らない状況です。バスを降りたツアーメンバーがもっていた線量計には、1μSv/hを越える数字が示されています。
 富岡町は、震災前までは夜ノ森の桜などで観光集客に成功し、町民人口が増えていたところ。中高一貫のスポーツ教育というのも特色があったと聞いています。今となっては皮肉な話ですが、無農薬の米づくりも進んでいました。

国道6号線沿線に積まれた汚染土壌

 ただ、こうした町の財政が福島第二原発の交付金を抜きにして成り立っていたはずもありません。
 第二原発の廃炉が決定すれば、町は主要産業を失うことになります。むろん何十年とかかる長い廃炉プロセスの間はまだ作業員が行き来するでしょうが、もともとの住民ははたしてここに戻ってくるのでしょうか。かつて廃鉱の町から人が離れたように、廃炉の町は、他の生きる手立てを探さない限り、人が増えるということはありえないのです。実際、離散した町民にアンケートを採ると「除染しても戻らない・戻れない」と考える人が43%、決めかねている人が40%もいます。
 富岡町の自慢は「花と緑があふれる町」でした。たしかに今も緑は至るところに溢れていました。ただそれは、かつて畑だったものを原型を止めないまでに覆って荒野に変えつつある、膨大な雑草の緑なのです。そしてもう一つ車窓の風景に際立っていたのは、除染土壌を溜め込んだ黒いビニール袋。これが文字通り山をなすように、行き場もなく積み上げられています。放射能は目に見えないといいますが、雑草とビニールは見る人の目をまざまざと射ぬく、あからさまな原発事故の爪痕です。

小川町の畑のそばに咲いていたケイトウ

 このショートトリップで、私は富岡と小川の畑の対比をせざるをえませんでした。片や原発事故のために取り残され、荒果てたまま2年が過ぎた。片や、人の手が入り、復興のシンボルともいうべき作物が可憐な花を咲かせている。 
 この差は、もちろん原発からの距離の差であり、降下した放射性物質の量の差であり、警戒区域や避難地区など、行政がいわば恣意的に行った区分けの差でもあります。そしてその差を生み出した元凶=原発はいまだに残されたまま。私たちはそれを、これから先もずっと、この狭い国土に何十と抱え続けなくてはならないのでしょうか。答えははっきりしているとあらためて思いました。