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2013.03.04

放射能=安心・安全キャンペーンに抗して、福島の現実を訴える11人の声

 福島原発事故からまもなく2年が経とうとしています。「フクシマ」を忘れず、事故の真の責任を糺し、放射能被害の速やかな軽減と原発の稼働停止を求めるためのさまざまなアクションが、3月には全国で展開されます。その一環として、3月3日、「福島原発災害に学ぶ─福島・首都圏の集い─」が東京・御茶ノ水の明治大学リバティーホールで開かれました。
 福島在住あるいは福島から避難しながら、事故責任追及と反原発の闘いを展開しているパネラー11名が一堂に集い、原子力災害がもたらす悲惨をあらためて訴え、それに抗する運動の形を議論しました。国と県を挙げての放射能=安心・安全キャンペーン、除染・帰還政策が繰り広げられるなか、首長として唯一その政策に反対し、それゆえ2月に辞任を余儀なくされた、双葉町前町長の井戸川克隆さんもパネラーの一人として参加しました。
 飯舘村で農業を営む伊藤延由さんは、「飯舘村は除染によって復興はしない」と断言。やみくもの帰還事業を進めるのではなく、国・県・東電などが保障し、新しい村をつくりだすことのほうが大切だと発言しました。
 殺処分を拒否し今も浪江町で牛の世話を続ける吉沢正巳さんも「浪江は絶望の町」と指摘しつつ、それでも自分たちが牛飼いを続ける意味を会場の参加者に問います。「牛の殺処分という棄畜政策は、いずれは浪江町避難民に対する棄民政策につながる」というのです。その言葉には国や県のいいなりになって、このまま自滅してたまるかという、怒りが込められていました。
 「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」からは吉野裕之さんが発言。子どもたちの通学路などを中心に市民がきめ細かい放射能測定を行い、綿密な汚染マップを作る活動や、保養プログラムの意義に触れました。また、「ふくしま集団疎開裁判の会」の井上利男さんからは、放射能安全キャンペーンを画策したICRPやIAEAの問題点を指摘する報告がありました。 「中間貯蔵施設を大熊町で引き取ってもよい、その替わり大熊町の住民が他の土地で生活する権利、家や土地をきちんと補償して欲しい」(木幡ますみさん)、「日本の国の政治は原発にしても何にしてもすべてのことがウソで固められている。そのことに、放射能以上の怖さを感じる」(渡辺ミヨ子さん)、「サラリーマンや若い人が変われば、この国は変わる」(木田節子さん)、「原発問題はその安全性を考えるのではなく、危険を考えることが大切」(人見やよいさん)といった女性たちの発言も、これからの被災者支援活動や反原発運動における重要な課題を提示していました。
 会場との質疑応答も活発に行われ、町長選不出馬の真意を問われた井戸川さんが、涙ぐみながらそれに答え、「住民の支持がある限り、私はこれからも発言を続ける」と述べるシーンもありました。

 司会進行は、当NPO事務局長・郡司真弓が担当しました。
集会の様子は、http://www.ustream.tv/recorded/29690201などのほか、USTREAMを「IWJ_TOKYO1」で検索すると視聴できます。

パネラーの発言要旨(発言順)


安斎 徹さん 飯舘村住人(伊達市に避難)、飯舘村新天地を求める会

 3.11の原発事故で情報を伝えられず、飯舘村は故意に被曝させられた。いまだ放射線量が高く、少なくともあと30年は帰還などできないのに、県は今秋にも帰還政策を進めようとしている。国と原発ムラはあれだけの事故を起こしておいて、なんの責任も取ろうとしない。
 以前、経産省の人に対して「飯舘の人は、(放射能の)研究材料にされた、売り飛ばされたんですよ」と言ったら、彼らは何も言えず下を向いたままだった。

伊藤延由さん 飯舘村新天地を求める会(福島市に避難)

 2010年に飯舘村に入植し、農業研修所の管理人をしながら楽しく農業をしていた。農場を6町歩に広げようとした矢先に「3.11」ですべてダメになった。今は福島市小宮に避難しながら飯舘村に通い続けている。
 県内各地にモニタリングポストの数値が公式に発表されているが、手元の放射線測定器で測るとそれよりも高い数値が出ることが多い。
 いま県と自治体は、いかに住民を騙して、帰還させるかに邁進している。(2011年3月22日の地方紙を示しながら)3月21日、飯舘村の簡易水道からヨウ素131が946ベクレル検出された日に、山下俊一氏は「健康上心配ない」と発言していた。しかし、最近の調査では甲状腺ガンの患者が3人、疑いも含めると10人出ている。
 飯舘村は除染によって復興はしないと断言できる。今行われている除染は住民が戻るためのものではなく、除染業者のための除染だ。屋根の瓦を雑巾で一枚一枚拭いているが、これでは除染にはならない。除染すると放射線量が一時は劇的に下がるが、まもなく徐々に上がってくる。除染しても数ヶ月経つと、元に近い数値まで戻ってしまうのが現状だ。水田の除染も、田の土を剥ぐと飯舘村だけで230万トンもの土がでる。それをどこに置こうというのか。
 帰村の条件に科学的な根拠は薄弱だ。「20μSv以下はタバコの害よりも安全、仮設住宅に住むストレスよりも安全だから」というものにすぎない。
 原発は人間によっては制御不能のプラントであるというのが、現在の私の結論だ。

木幡ますみさん 大熊町明日を考える女性の会(会津若松市に避難)

 先日、大熊町に一時帰宅をしたら雨樋のところで、120μSV/hもあった。一時帰宅したときに聞いた話だが、大熊町の町長が除染作業を視察して弁当を食べたという。その食材は大熊町のものだったと聞いたとき、ぞっとした。
 いま福島では毎日、放射能に怯えながら人が暮らしている。私の夫は腎臓が弱く、避難生活でそれが悪化したため、2011年6月に私から腎臓を移植する手術をした。その時点での検査では、がんの異状はなかった。しかし、2週間前に北海道がんセンターの西尾正道院長に診てもらったら夫は甲状腺に嚢胞や結節ができていた。私にも嚢胞があった。
 西尾先生は、みんなかなり大変な体になっている。これは異常事態だ、とおっしゃっている。
 大熊町の町長は帰れ帰れと言っているが、私は百年経っても帰れないと思っている。ほんとうは帰りたいが、子どものため将来のために帰れないというのが住民の本音だ。夫は透析を続けながら、2011年秋に「帰還なし」を前提に町長選に出馬したが、落選した。
 原発はいま4号機も危ない状態。人間はこんな捨てるところもないものを作り出してしまった。一人一人が事故を反省し、二度と作ったり、再稼働してはいけない。
 しかし、現実にはそんな福島に子どもたちが住んでいる。ロシアは国土が広いから逃げ出すことができたが、日本は狭いから出て行けない。そのことを考えてほしい。中間貯蔵施設を大熊町で引き取ってもよい、その替わり大熊町の住民が他の土地で生活する権利、家や土地をきちんと保障して欲しい。また、かつてヒロシマ、ナガサキで配ったような被曝者健康手帳、それを私たち住民と原発事故収束作業についている労働者全員に配布して欲しい。

木田節子さん 富岡町からの避難者(水戸市に避難)

 この集会に来るような方は、原発や放射能のこと、日本の歴史のことなどもよく勉強しているのであらためて言う必要もないかもしれない。私が訴えたいのはむしろふつうの人。例えば私の夫のようなサラリーマンだ。黙々と働き、税金を納めている人。しかしその税金によって、国の政策が支えられ、原発が推進されてきた。そのサラリーマンがいま何も言わない。サラリーマンが、国がちゃんとやらなかったら税金を払わないぞと声を挙げたら、国は変わる。
 そう考えて、木幡さんと一緒に、二人だけで昨年、サラリーマンが多い新橋のSL広場でゲリラ街宣をして、福島の現状を訴えた。この3月にまたやりたいと思っている。
 サラリーマンや若い人が変われば、国が変わる。今日も御茶ノ水の街には若い人が多く、このリバティータワーにも人が吸い込まれていって、ああこの集会を聞きに来てくれたのかと思ったが、別のイベントだった(笑)。
 私も先日、フォト・ジャーナリストの山本宗輔氏と共に富岡町に一時帰宅をした。私の家は庭先で最高で10μSv/h。しかし3ヶ月前の一時帰宅のときは4μSv程度だった。雨が降り、落ち葉が溜まるとそこの線量が高くなる。
 私たち福島の人間にはもう失うものはない。しかし、いま守るべきものがある人たちが、いま声を上げなければ、いつか私たちと同じような事故に遭い、「福島方式」で処理をされてしまうかもしれない。そのことにぜひ気づいていただきたい。

井戸川克隆さん 前双葉町町長

井戸川克隆さん  町長就任以来、自治体の財政再建のために奮闘してきたが、辞任を余儀なくされた。町会議員8人からの辞職要求書の文面は、三下り半どころか二行半しかなかった。私を追求するなら証拠を出してくれと言ったが、証拠は出せないと言い返された。
 「3.11」直後、県からの情報の遅れに戸惑いながら、自分で判断して町民を引っ張って、埼玉に避難した。しかし、いま町民に聞くと「私たちはふるさとを愛している。もう覚悟を決めた。だからここに住む」という言葉が返ってくる。これほどまでにわが町民を洗脳してしまったのは一体誰なのか。
 放射能は目に見えないというが、人間の知恵を駆使すれば、見えるようになる。福島県の地図に(チェルノブイリの)放射線管理区域を重ね、さらに県内のモニタリングポストの数値をかぶせれば、どの地域がどの程度汚染されていて、人間がそこに住んでいいのかどうかは一目瞭然だ。規制値を超えた川や湖の水、自然から採取される食物マップを重ねれば、福島県全域で食べられるものはない。自然界がだめだといっているのに、それを人間の都合で食べているだけだ。線量が高いところは、子どもが住んではいけない、飲み食いしてはいけないところだ。会津若松市の一部にもそれはある。県北部にもそれは広がっている。宮城や茨城のデータは私の手元にはないが、放射線は県境を越えて広がったことは事実だ。
 そういう環境の下で住民が暮らしている。それを強いている最高責任者は、福島県知事だ。我々が訴えなくてはいけないのは、県知事に補償を求めることだ。ところが、彼は県外に出た人を呼び戻そうとしている。私は2012年秋に県知事に質問書を出し、最近も重ねて質問をしたが、回答は曖昧なままだ。帰還の前提となる安全・安心の基準・数値が曖昧なまま、県は帰還政策を進めようとしている。
 チェルノブイリではいまだに発症者が増えている。ウクライナの青年たちの多くが何らかの疾病を抱えている。それはフクシマの25年後を見る思いだ。
 昨年訪れたジュネーブの市長さんからもお手紙をいただいた。(註:「政府に福島県民のみなさんがモルモットのように扱われている事態は許しがたい」という文面がある。井戸川氏のジュネーブ訪問の記録は、こちらのブログなどを参照)
 日本では公衆被曝の限界はかつて1mSv/年だったのが、原発事故後に20mSvまで上げられた。ところがドイツでは0.3mSvが限度だ。食物は大人で8ベクレル、子どもは4ベクレルだ。ところがいま福島県は100ベクレルだ。過去の数値との比較、海外との比較をすれば、いかにこの数値が異常かということがわかるはずだ。何mSv以下なら戻せるという放射能許容値の問題については、厳密な科学の議論が必要だ。安易に行政が判断すべき問題ではない。
 これほどまでに非人道的な扱いをなぜ主権者である国民に強いるのか。他力本願では何も変わらない。我々が、主権者としての国民が立ちあがるしかない。
 福島県は住むところではないと発言する首長は私一人だった。排除されるのは当たり前かもしれない。しかしそれでもいいから、真実を言い続けようと思った。これからも私は真実を発言し続けていく。

渡辺ミヨ子さん 借り上げ住宅居住(田村市)

 田村市(旧田村郡都路村)に住んでいた。30キロ圏内だったので避難した。昨年の8月に賠償が打ち切りになり、帰っていいことになっている。除染という言葉を聞いたとき、最初に、それはまやかしではないかと思った。実際の除染作業を見てほんとうにまやかしだと思う。大手ゼネコンの金儲けの対象にされている。こういう事態になっても金儲けに奔走する国なんだなと思う。
 ウソはついていけないと小さい頃から育てられた。日本の国の政治は原発にしても何にしてもすべてのことがウソで固められていることに、放射能以上の怖さを感じる。これは第二次世界大戦、いや徳川幕府のころから変わらない。このままの状態、国が国民を県民を騙そうということが続いていくなら、この国はおしまいだと思う。
 スイスの原発では国民にウソはつかず、国民に全てを打ち明けて、(廃棄物)処理の方法を国民みんなで考えているということを、NHKのテレビ番組で知った。
 日本は科学技術は世界一だと自慢するが、それがなによと私は思う。人命を大切にしない政策で国民を苦しめている国、ウソで固められた偽りの社会の中で人間が幸せに暮らせるはずはない。
 地球を外から見た宇宙飛行士の言葉がある。「地球を守るのは、人類の知性と愛情と調和である」と語っている。
 本当に国民を守るのであれば、すべてを明らかにするべきだ。それを進める政治家が立たない限り、日本に未来はない。ウソ偽りなく国民に明らかにして、国民を守るほかはない。そのことをみんなで訴えていきたい。
130304

佐久間久夫さん 二本松市専業農家

 2011年の3月12日の夜頃には大型観光バスがすごかった。地震の後なのになぜ観光バスで旅行に行くのかと思った。それが浜通りからの避難のバスだった。運転手もどこへ行っていいからわからない、とにかく西に逃げろといわれたという。二本松市には、浪江町の人が避難してきた。そこまで来る途中は津島というところに逃げた。ところが、そこがホットスポットだった。
 そもそも避難の仕方がおかしい。川俣町は避難しているのに、その(地形的に)下のほうの人は避難しないでよいという。下の町が使う(放射能に汚染された)水は上から流れてくるというのに。
 田圃でもそう。3メートル上は作っていけない、その下は作っていい、などといい加減なものだ。
 除染は最初は学校から行われたが、校庭に穴を空けて、そこにシートを張って、土をかけるだけ。あくまでも仮置き場。しかしそこから先に持っていくことはない。どこへも持っていく先がない。
 家屋の除染事業も最初は高圧水洗浄だった。あまりに古い家は高圧で水をかけたせいで、トタン屋根に穴が開いて雨漏りした。むしろ線量は屋根よりも雨樋のほうが高い。新しい雨樋を買って付け替えたほうが速いと思うが、市のマニュアルにはただ高圧水洗浄とだけしかなかった。
 山の除染なんて不可能だ。安達太良山から山形まで、あるいは黒磯のほうまで続くあの山々をどうやって除染するというのか。
 民間の除染もどこへ土をもっていけばいいかわからないから、そのあたりに穴を掘って埋めているだけ。
 ホットスポットはどこにあるかわからない。だから風評被害は確実にある。私のところでは作物はきちんと放射線を測って売っているが、一箱300円で売って、20円の儲けにもならない。
 今年で百年になる小さな水力発電所が私の家の近くにあるが、修理しながら今でも動いている。水力発電が百年間持っているのに、原発は何年持ったというのか、あれだけの高い金をだして。これからのエネルギー政策では、自然の息吹を大切にしていったほうがいい。

吉野裕之さん 子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク

 私たちの活動は子どもたちの保護者が中心。自分たちでプランをつくり、率先して動く、それをみんなでサポートするというのが活動の趣旨だ。
 最新型のGPS内蔵の可搬型測定器で、子どもたちの学校通学路などを一つひとつ測定している(同ネットワークのホームページに紹介されている放射線測定結果を示しながら)。学校の校庭は除染されているから、0.2μSv程度だが、子どもたちが通学している道路、部活で走らされているサイクリングロードなどは線量が高い。
 文科省はヘリコプターや車から測定して放射能は低減しているなどと言っているが、私たちが歩きながらハンディ端末をもって測定すると、まだ高い。子どもの身長や道路の端を歩いて通学するという状況に沿って測定するとそうなる。
 モニタリングポストの数値は点で測っている。その地点はたしかに他の測定器でもそう値は違わない。しかし、公園に設置されているポストから5〜10メートル離れると倍近くに上がる。子どもたちはそこで実際に遊んでいる。モニタリングポストそのものの数値がどうこうというよりも、それによって象徴される地域の放射能線量はあくまでも点での測定でしかないということだ。
 ホットスポットを探して、高い地点を暴きだすというよりも、どこにクールエリアがあり、それがどのように広がっていくかという視点が大切。クールエリアを広げるという意味で、除染を促すことには意味がある。
 この測定器はまだ2台しかないが、こうした活動の範囲をもっと広げていきたい。今後の原子力規制庁の防災指針にもこうしたデータを反映させるべきだ。
 子どもたちは外で遊べていない。学校の体育の授業では外で遊べる時間の制限を設けている学校もある。震災以降2年近くなるが、一度も園児を散歩に連れ出していないという保育園もある。落ち葉などは他の県から送ってもらい、室内にそれを広げて遊んでいる。
 子どもたちに少しでも外で遊ぶ時間をプレゼントしたいというのが私たちの思いだ。
 保養プログラムには感謝している。お金と人員の手配など大変だと思う。保養プログラムに連れていくと「ここの土触っていいの?」と子どもたちは必ず聞く。子どもたちは道路の端の線量が高いことを知っているから、真ん中を歩く癖がついているが、保養地では堂々と道路の真ん中を歩ける。
 最近、伊達市が移動教室を始めた。これは画期的なことだ。民間の保養プログラムと教育委員会の移動教室を組み合わせて、子どもたちの生物学的半減期の時間を稼ぎたい。
 保養プログラムは、たんに子どもの身体のためだけでなく、子どもの心身の発達の権利を確保するという意義をもっている。子どもは私たちの未来というが、その子どもたちはみな現在を生きている。将来、自分たちの子ども時代を振り返ったとき、あのときの大人が何をしてくれ、何をしてくれなかったかということを思い出すだろう。子どもたちの将来の思い出をいかに豊かなものにするか、それは今私たち大人の行動にかかっている。

井上利男さん ふくしま集団疎開裁判の会

 (スライド写真を示しながら)
 郡山市内の県営住宅の広場、0.86μSvのところで、子どもたちがマスクもせずに遊んでいる。郡山市街をチェルノブイリ法でいう強制避難地域のデータと組み合わせて示す。5mSv/年以上のところだが、これが郡山市街のほぼ全域を覆っていて、そこで子どもたちが遊んでいる。
 こういう風景を作り出したのは、事故のあと1ヶ月経って学校を再開するために、2011年4月に文科省が出した通知だ。文科省は「国際的基準を考慮する」という。国際基準とはICRP(国際放射線防護委員会)のことだ。ICRPは原発事故の異常事態が収束したあとは、1〜20mSv/年の基準を考えるのが適当だという声明を発表した。そこから文科省が独自に計算して3.8μSv/時未満であれば校庭・園庭を使用してもよいとした。これがお墨付きになった。
 3.8μSv/時という数値は放射線管理区域基準の6倍強に当たるもの。一般人の被曝線量限度の20倍に当たる途方もないものだ。
 ICRPは、2011年3月21日の日本政府向け声明のなかで「放射線源が制御下にある場合、汚染地域が残っているかもしれない。当局は多くの場合、そうした地域を放棄するよりも、人びとが居住しつづけるのを許容するためにあらゆる必要な防護手段を提供するであろう」とも述べている。
 ICRPのジャック・ロシャールら幹部は2011年11月に内閣官房のワーキンググループでプレゼンテーションを行った。ロシャールという人はベラルーシでエートスプロジェクトをやった人。「チェルノブイリ事故で被災した住民の大多数は被災地域にとどまる決心をした」として、日本政府にもそれを勧めた。その最終会議の翌日12月16日に野田首相による原発事故の収束宣言が行われ、同日に私たち集団疎開裁判の申し立てが棄却された。この判決は行政の決定をそのまま追認しただけのもので、裁判所は司法権を放棄しているといわざるをえない。
 さらにIAEA(国際原子力機関)は昨年12月には原子力安全福島閣僚会議の開催という形で、福島に乗り込んできている。
 「集団疎開の裁判にたとえ勝っても負けても、子どもたちを守るためには市民の力が必要だ」という弁護士の言葉を最後に紹介したい。

人見やよいさん 原発いらない福島の女たち

 原発事故で生活ががらっと変わった。東京にこれほど通うことになろうとは思わなかった。福島で穏やかに平和に暮らしていたかった。それが悔しい。女たちが力を合わせて何かをしなくちゃということで、東京で座り込みをしたり、院内集会を開いたりとか、東電や各省庁交渉をしてきた。
 省庁交渉では、愕然とすることが多々あった。例えば厚労省交渉では、子どもに甲状腺の膿疱が見つかって不安になっているお母さんたちの前で、役人が「科学的知見によれば安全なんですよ。2年間は様子を見ていて大丈夫ですよ」とぬけぬけと言う。“厚生省”はその名の通り、「厚かましく生きている」のだとそのとき思った。
 文科省でも「子どもたちにはガラスバッチでなくて、線量計をぜひ支給してほしい」と要求しても、「学校には1台ずつ線量計を支給しているから大丈夫」という。しかし学校の線量計は車で通勤している学校の先生が管理している。道路の端を徒歩で通学する子どもたちの実態に即していない。
 省庁交渉では末端の官僚の人はよくしてくれる。しかし、原発を止めることができる権限を持っている人に私たちの思いを直接伝えたいのに、それが叶わない。
 IAEAが原発や放射能の安全を広めるために福島に入り込んでいる。12月の福島閣僚会議は私も3日間にわたって傍聴してきたが、一般市民の傍聴は少なかった。市民の傍聴が可能であるという告知がほとんどされていなかったからだ。会議の傍聴にあたっては厳しく所持品検査がされた。カメラの中に武器が仕込まれていないかというところまでチェックされた。
 福島県は原発廃炉を宣言したにもかかわらず、会場にはその展示はほとんどなく、福島では除染や測定、健康調査を頑張っている、福島県は安全だというアピールばかりが溢れていた。世界に向けて、福島の安全をアピールする場だった。しかし実際はそうではない。これからでも遅くはない。原発問題はその安全性を考えるのではなく、危険を考えることが大切なのだということを、これからもアピールしていきたい。

吉沢正巳さん 浪江・希望の牧場場長


 浪江で和牛の繁殖と肥育を今も続けている。3月17日原発の排気筒から立ち上る噴煙をこの目で見てしまった。あれから2年。浪江町は2万1千人の町民が町に帰れない。僕たちが抱える無念、絶望感がなかなかみなさんに伝わっていない。4月には警戒線の解除が行われるが、しかし我が町、浪江町は今も死の町、絶望の町だ。70軒の酪農家、400軒近い肥育農家のほとんどが潰されてしまった。3500頭の牛たちのうち、1500頭は餓死してミイラになった。殺処分という半強制的な圧力に抗して、私たちはそれでも牛を生かしてきた。警察の検問をかいくぐりながら、放射能が漂うなか地区に入って牛の世話をしてきたのは、牛飼いとして絶対に牛を見捨てないという思いからだ。
 事故のあと双葉郡の住民に対して「原発立地で潤ったのだから自業自得だ」という発言があった。怒りを覚える。私たちには、東北電力が計画していた小高・浪江原発を30年以上の反対運動によって作らせなかった、という歴史がある。それがなかったら、小高・浪江に最初に原発ができていた。
 それでも福島原発の事故。放射能の汚染地図でこの地は真っ赤に塗られている。福島県議会は10基の廃炉を宣言したが、なんだよ、今頃になってという思いだ。水源のダムがあるところも真っ赤だ。そんな水を使って、米作りなど二度とありえないだろう。米作りができないところに、農家が戻れるわけないじゃないか。山の汚染、ダムの除染なんてできるわけないだろう。
 二本松に疎開している小学校にはついに今年の4月には新入児童が一人もいなくなった。学校、スーパー、病院、なんの意味もない。再開なんてできない。請戸漁協の漁師さんたちはこっぱみじんに津波で粉砕され、墓さえも残っていない。
 その現場に立てばこの世の終わり、心が折れる。浪江町の絶望はそちらこちらに転がっている。
 僕たちはそういうなかであえて「希望」という名前をつけて牧場を存続させている。僕の牧場は空間線量で3μSv/hある。しかし浪江町では30μSvのところにまだ和牛が100頭近く生きている。そこに農家さんが通って世話をしている。そこに行けば被曝することがわかっているにもかかわらずだ。
 もちろん東電の賠償は勝ち獲る。しかし牛は売れない。それでも牛の世話を続ける。栄養失調で痩せ細った牛たち、意味のなくなった牛たちに餌を与えながら、自分たちが行っていることはなんだろう、なぜだろうと思う。
 私たちが牛たちを生かす意味をみんなに問いたい。牛の殺処分=“棄畜政策”、これはかならず“棄民政策”につながるだろう。双葉郡の避難民はまともな補償も受けずに、避難所で年寄りからだんだん倒れてしまう。我々のせいで起きた事故でもないのに、そのためにこのまま自滅していっていいのか。
 違う。そうじゃない。原発再稼働がこの夏・秋にも始まろうとしている。反原発の拠点となった経産省前テントひろばも、撤去させられるかもしれない。今こそ私たちの原発を乗り越える実力が問われる。この原発を乗り越えるために、闘い続けるしかない。牛飼いとしての残りの人生を、その闘いの先頭に立って頑張っていく。