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2012.09.23

廃墟の村といまもつづく放射能被害──チェルノブイリ視察ミッション・レポート

原子力発電所の事故に遭った福島は、「FUKUSHIMA」と表現され、その名は国際的に知られるようになりました。永久的に放射能の被害を受ける福島の未来を考えるために、市民の目でチェルノブイリ事故から学ぶことが大切であると考え、私たちはこの9月に「チェルノブイリ・ミッション」というツアーを企画しました。「チェルノブイリ救援・中部ネットワーク」のコーディネートのもと、当NPOから5名の会員が参加しました。
●実施日:2012年9月2日~9日
●参加者:NPO法人ふくしま支援・人と文化ネットワーク 会員5人/ 添乗員、コーディネーター(チェルノブイリ救援・中部ネットワーク) 計7人
以下、主な訪問地のレポートです。


未だ処理は終わらず。経済問題が復旧の足かせに

理事 小林 一

チェルノブイリ原発、爆発現場まで150mに接近

 チェルノブイリ視察ツアーは、初日の9月3日から本命の原発跡地に向かいました。原発から30キロのところの最初の関門で専門のガイドが乗り込み、少し緊張が走ります。10キロの関門を過ぎると全く人の住めない放置された地域、途中で寄った廃墟となった幼稚園の入り口の大きな樹の下はホットスポット、1mの高さで、6.6マイクロシーベルト/時の放射能がありました。

爆発した4号炉のいま                      プリピャチの朽ちかけた観覧車

プリピャチ チェルノブイリ  爆発した4号炉から150mのところまで来て車の外にでました。
 青空の下、真近に見える4号炉は一通りコンクリートの石棺に囲まれ、大惨事の跡はほとんどみえません。立っているところも放射能も2マイクロシーベルト/時程度です。ただ、炉の屋根の部分は損傷が進んでいて、それを覆うための新しい石棺の構築のための工事がすぐそばで進められているのですが、経済的に豊かでないウクライナが旧ソ連邦から独立したこともあり必要な資金が集まらないとのこと、深刻です。未だ処理が終わっていないのだということを改めて思い出させてくれます。
 次に、原発から1.5キロにある原発関係者が住んでいた人口5万人のニュータウン・プリピャチの跡地に行きました。事故直後に全員移住、その後は放置されたままの廃墟となっています。遊園地の朽ちかけた観覧車、雑草、樹木が繁茂しはじめたコミュニティ施設地区、夏草や・・・の世界です。汚染度は今も3.1マイクロシーベルト/時です。

ナロジチの菜の花プロジェクトと覇気のない子供たち

 4日は、爆発地点から70km圏のナロジチ地区で、まずは救援中部の方々が2007年から進めている菜の花プロジェクトを視察しました。汚染された農地に菜の花を植え、放射能を含まない菜種油を搾取し、残りはバイオマスとして利用することで農地の除染を進めながら少しでもお金にしようというもの。今回はバイオマスでガスが発生させている装置を見学しました。ジトミール州のプロジェクトとして地元の大学と連携して、2,500haという広大な土地を使ってより、実用的なスケールでの展開を図ろうとしています。このようなプロジェクトが日本のNPOによって進められていることに感銘を受けました。
 ナロジチ地区では幼稚園と病院を訪ねました。幼稚園では園児たちの歌や踊りの歓迎、一同ほほを緩めたのですが、先生方の話を聞くと、住民の半分以上が移住した汚染度が高いこの地の園児は全員が呼吸器、循環器等何らかの障害を抱えているとのこと、そういえば何となく覇気のない感じでした。中央病院での長くこの地域で医療を続ける副院長の話もこれを裏付けるもので、今でも風邪をはじめ心臓、血管、癌等が多いとのこと、免疫力が落ちているのでしょう。子供2千人に1~2人が毎年甲状腺ガンを発病しているそうで、福島のことを考えると厳しいものがあります。汚染度の高い当地での勤務を希望する医者が不足しているという話にも身をつまされました。

生き残った消防士の話

 5日は140キロ圏のジトミール。最初に、移住者のお世話をしているホステージ基金の事務局を訪ねました。代表のB・キリチャンスキーさんは公式の資格をもったジャーナリスト、事故後の移住者の状態やそれに対する政府の対応等についてたんたんと語られました。一番印象的なのは、やはり資金問題、最初は日本のカレンダーを売ったお金で仮宿舎を用意したという話も聞きました。ソ連邦崩壊のなかで資金状態は先細り状態、地域の貧困というのが大きな課題です。ナロジチの幼稚園では3食の給食代が日本円で一日一人当たり100円、十分なビタミンが与えられないという話を聞きました。ジトミールの学校で高校生と小学2年生のクラス訪問しました。こちらの方は、爆心地から遠いせいか、将来の夢を語る小学生の屈託のない笑顔の方が印象的でした。

元消防士ボリス・チュマクさん

ボリス・チュマク氏  私にとってもう一つのハイライトは、ジトミール消防博物館での、事故のときに消火活動の現場を指揮をしたボリス・チュマクさんのお話でした。最初の消火活動で多く(28人)の消防士が亡くなったことは聞いていたのですが、一か月近く後の3、4号機の間の火災のときは、最悪世界中に汚染が広がる恐れがあるなかでの決死の消火作業を行ったこと、そこで82人の消防士が亡くなり、生き残った方も多くは50歳までに亡くなっているとのこと、消防服やガスマスクの実物を前にお話しはリアリティがあり、改めて消防士さんたちの働きぶり、職業倫理に頭が下がりました。
 チュマクさんは現在74歳、現在も亡くなった同僚の家族や後輩の消防士の支援活動を続けています。内臓のほとんどを摘出しているそうですが、修羅場を潜り抜けた方らしい奥深い眼差しと穏やかな表情でのしっかりとした語り口は、語られる内容と合わせ、人間の強さを感じさせ、崇高なものでした。

国や地域の貧困が問題を深刻にしている

 6日はキエフで、上述のプリピャチから集団移住した方々の自助組織のゼムリャキを訪ねました。事故後も事故処理関係の仕事についているので、体調を崩したり、亡くなる人が多いことがここでも語られます。一人の主婦からは、移住に際し1万ルーブルが支給されたがソ連邦の崩壊後のインフレで貯金が亡くなったという話を聞きました。事故そのものだけでなく、厳しい経済情勢がそれに輪をかけて家計を苦しめたようです。
 繰り返しになりますが、国や地域の貧困が問題を深刻にしているということが、今回学んだ大きなことです。その中でゼムリャキの人たちに若者世代のことを聞いたところ、自分たちは、明るい未来に向かって生きているという趣旨の強い答えが返ってきたのには、こちらが元気をいただきました。
 その他、キエフの町のこと、福島での応用などなど、書き尽くせないのですが、百聞は一見にしかずでメインの原発関係視察に絞った話で報告を終えます。団長役を務めてくださった郡司さんはじめ、コーデイネーターのJさん、旅行のお世話をしてくださったYさん、通訳のモンゴル人・モゾロフさん、団員のみなさん、ありがとうございました。